刀剣界ニュース

ポーランドにて日本刀講演を開催。今後の教訓とすべき点。

訪問団は刀職ら十四名 
昨年の「大刀剣市」にポーランド日本刀協会会長のヤセック氏が来ていました。実は彼はほぼ毎年、大刀剣市を楽しみに来日し、文化的に有名な各地を訪問している日本通です。また八月九日には、トルン地方博物館の学芸員パヴエウ・チョピンスキ氏が備前長船刀剣博物館を訪問されました。
 
トルン市はポーランド北部に位置し、一九九七年にその都市計画と建築美がユネスコの世界文化遺産に登録されており、トルン地方博物館は十五世紀以前から残っている壮麗な旧市街地にあります。昨年、同館館長マレック・ルビンコヴィッチ氏より備前長船刀剣博物館に対し、ポーランド国内の日本刀や鐔・刀装具類の修復・保存・管理についての支援・指導、情報交換の申し出があり、備前長船刀剣博物館もそれに応えるべく友好の意を返したところから、今回のポーランド訪問は実現へと向かいました。
 
期間は十月九日から十八日まで。文化庁・瀬戸内市・一般社団法人全日本刀匠会事業部などから援助を頂き、訪問団が編成されました。備前長船刀剣博物館学芸員の植野哲也氏が団長を務め、刀職関係では副団長として全日本刀匠会会長の三上貞直氏、鞘師の石三郎氏、刀身彫刻師の片山重恒氏、刀身彫刻・装剣金工師の木下宗風氏、そして研師の私、さらに全日本刀匠会事業部理事の杉山昌男氏、テレビせとうちクリエイトのディレクター安田健氏と同社カメラマン井上慎一氏(「海を渡った備前刀」をテーマにドキュメント番組を制作するため)、刀剣の漫画でお馴染みの漫画家のかまたきみこさん、角川書店編集者の及川史朗氏、中国電力OBの白髭修一氏ご夫妻と、同社海外事業主管部門の矢田秀夫氏の総勢十四名。
 
白髭氏には、文化交流は経済・技術交流とともに国と国との絆を支える大きな柱であるとして、出張の際に触れたポーランドにある数多くの日本刀や刀装具の保全・管理の問題を何とかしたいという関係者の熱意を背景に、今回の機会を作っていただきました。そして、矢田氏とともにスケジュール編成や訪問先の博物館への対応などにご尽力を賜りました。
 
十日間の仕事のやりくりと準備には、皆さんご苦労なさったことと思います。ともあれ三つのグループに分かれた訪問団は、ポーランドに向け飛び立ちました。トランジットのためのドイツ・フランクフルト空港で関空出発組と無事合流。ポーランドは九年前にEUに加盟、今はシェンゲン圏内なので、トランジット国の入国審査で入国できます。刀剣の持ち込みでしばし拘束されていた三上刀匠も解放されて、ようやく全員がそろいました。
 
迎えに来てくださったのは、日系二世の梅田友穂氏と日本企業誘致の仕事をされている中村富士夫氏、そして通訳の小見アンナさんとノビツカ・エディタさん。通訳のお二人のご主人はともに日本人で、日本在住も長く、非常に達者な日本語と優秀な頭脳で双方の主張や意見を正確に伝えていただきました。彼女たちは明るさと熱心な仕事ぶりで、今回の訪問の重要な役割を果たしてくれました。

トルンで開催された
「鐔展」
 
夜、ワルシャワ駅前のマリオットホテルに到着。ホテルの部屋から、ワルシャワ駅の横に不気味で威圧感のある(アンナさん曰く)注射器のようなビルが望めます。高さ二三七メートル、四十二階建て、一九五五年に竣工したスターリンからの贈り物とのこと。ワルシャワ条約機構(東欧軍事同盟)が結成された年、すなわちソビエト支配下の時代に建てられた、ポーランド人にとってはありがたいような、ありがたくないような存在。
 
翌十日朝、ワルシャワ駅から鉄道でトルンに向かいます。距離約一八〇キロ(所要時間二時間四十五分)、コンパートメントの車窓から眺める景色は、平原の連続です。ポーランドは南端の一部を除いて大平原の国で、農業も盛んです。そして樹木の伐採と運搬が平地でできることは、日本人にとっては驚きです。
 
トルン駅から旧市街地の宿泊地に移動。泊まるホテルも含め、現代の建物は一つもありません。天文学者のニコラウス・コペルニクス生誕の地としても有名で、旧市街地にあるコペルニクス像は観光の名所となっています。
 
北部ヨーロッパで最も壮麗な市庁舎と言われる中世の建物の迎賓室で、われわれ訪問団の歓迎式が開かれました。ポーランド訪問の重要な目的が、トルン旧市庁舎に併設されるトルン地方博物館で開催される「鐔展」において、鍛刀・研磨・白鞘・刀身彫刻・彫金の実演と刀に関する講演を実現させることでした。
 
われわれ訪問団を待ち望んでいてくださった、博物館長マレック・ルビンコヴィッチ氏より歓迎の挨拶があり、続いて植野団長がそれに応え、お互いに握手を交わし記念品の交換などが行われました。このとき車椅子で出迎えてくださったポーランド刀剣部名誉会長のクシストッフ・ポラン氏は、長年、日本刀や刀装具の研究をされ、日本刀関係の執筆にも関わり、それらの保全に努めてきた功労者で、この訪問を一番心待ちにしていた一人です。トルンの訪問が終わるころ、「長年の夢がかなった」と笑顔で語っておられた姿は印象的でした。
 
歓迎会後、博物館に移動。刀剣の調査を実施し、翌日の実演・講演と、日本から持参した刀や刀装具、パネルの展示準備をしました。国内外に限らず、遠隔地で

実演・講演を成功させるためには、現地で想定外の事態が起きることにも配慮して準備しなくてはなりません。特に海外の場合は講演内容を事前に翻訳していただく必要があり、難解な日本刀の専門用語に通訳さんはご苦労なさったことと思います。
 
トルン市が用意してくださった豪華料理による歓迎夕食会に出席。副市長ほか、展覧会関係者との懇談で、古い歴史から戦時下にあった近代、そして現代に至る話題について、それぞれ自国の言葉で自由にやりとりできたことも、通訳さんのおかげです。ちなみに、ポーランドの料理は非常においしかったが、量が多い。刃文・働き・地鉄…すべてが美しい
 
十一日、朝早くからマルボルク城を見学。夕方五時から、翌日から開催される「鐔展」のレセプションが行われました。トルン地方博物館は五カ所に分かれていて、その一つにコペルニクスの生家が充てられています。「鐔展」が開催されたのは、その中の「星の館」と呼ばれる東洋美術を展示す
る博物館で、奥には館長自慢の日本庭園があります。
 
館蔵品ほか五百点の鐔が展示される会場で、来賓で埋め尽くされた中、館長はじめ、トルン市長、日本刀部会長などの挨拶がありました。その一言一言に、日本古来の美術品に対する尊敬の念と関心の高さを感じました。
 
十二日、いよいよ講演と実演の始まりです。最初の講演は白髭修一氏による「剣客(求道者)のたどり着いた境地」。これはさまざまな剣客たちの流派が掲げる真理と、現代社会に通ずる思想の話で、われわれにとっても感銘の深い内容でした。続いて植野哲也氏による「日本刀の聖地・備前長船と日本刀が出来るまで」と、私の「研磨の歴史」「日本刀の研磨工程」。いずれも渡航前から準備していた講演内容を、通訳の方が正確に伝えてくださり、講演後のディスカッションも非常に活発に意見を交わすことができました。
 
実演は、石三郎氏による「館蔵品の鞘修理と白鞘の製作」。石氏はコンクールにおいて白鞘・拵で数々の入賞歴があり、経験も豊富な方です。木下宗風氏は「刀身彫刻・刀身に龍を彫る」。専門は刀身彫刻ですが、金工としての技術も優れています。片山重恒氏は「鉄鐔に梅を彫る」。彼も専門は刀身彫刻ですが、彫金技術も優秀で入賞歴もあり、二人とも今後ますます活躍が期待されています。

それぞれの職方さんの周りには、多くの来館者が囲むように集まっています。実演中誰一人動こうとせず、熱心な質問が次々と寄せられますが、その内容を二人の通訳さんが丁寧に翻訳してくださったので、微妙なニュアンスも伝わったはずです。
 
夜七時からは、石畳の中庭で本日のメインイベント、三上貞直刀匠による鍛錬の実演です。煉瓦で作った急ごしらえの火床、現地の刀鍛冶が用意した鞴、炭はバーベキュー用、向こう槌はポーランド人。こんな状況で鍛錬したのはたぶん初めてのことだったと思います。寒中、多くの観覧者が見守る中、落ち着いた手さばきで折り返し鍛錬と、現地刀匠が事前に用意していた本造り脇指の焼入れをお見せすることができました。
 
この鍛錬設備を用意したポーランドの刀鍛冶のヴォイチェフ・クッシニエッシ氏が、心躍らせながら準備をしている姿と、日本語で『刃文』『働き』『地鉄』すべてが美しい」との言葉に、本当に日本刀が好きなのだと感動しました。
 
ポーランド日本刀部会の方が製作した刀を三上刀匠と私が拝見し、お話も伺いましたが、彼らの考えが、本当に美しい日本刀を作りたい、または知りたいという思いであることが理解できました。そして、正しく理解してもらうためには、今後の交流の継続が必要と感じました。

各所での講演と実演に高い関心 
十三日の講演は、かまたきみこさんと及川史朗氏による「ファッションと刀」。日本刀の外装はファッションであったこと、日本刀が現代文化の中でどのように登場してくるのかなどが語られ、短刀拵の絵に好きな図柄を描くという体験も盛り込まれていて、参加者も一緒に楽しむことができました。
 
実演は、昨日に続いて片山氏の彫金と石氏の白鞘製作、そして私の研磨の仕上げ(三上氏の刀で地艶・拭い・刃取りを行う)。日本刀の研磨は、美術品を対象とする技術が高度に発達していて、一般の方には単に研磨という概念では受け止めることができなかったかもしれません。伝統的技法による本物の技術を見せることは、理解していただく上で大切なことですが、これは日本でも同じことが言えると思います。
 
午後一時過ぎには片付け始め、ワルシャワへ移動の準備。移動の度に大きな荷物を運ばなくてならないわれわれのために、その都度、現地の梅田友穂氏が自分のランドクルーザーで運んでくださいました。
夜八時ごろワルシャワ着。
 
十四日、ワルシャワ大学の日本文化祭で白髭氏の「剣客(求道者)のたどり着いた境地と現代社会への示唆」の講演。これは主にワルシャワ大学日本語学科の学生が聴講していて、日本語で話されました。ほかに東京大学・信州大学などの日本の専門家やポーランド人によるものなど、三日間で三十以上の講演があったそうです。中でも白髭氏の講演は、現地の学生たちにとって非常に興味深く、多くの関心を集めました。
 
午後、ワルシャワ軍事博物館を訪問。表には世界大戦当時の戦車や戦闘機が置いてあり、東洋美術のブースには日本の武器や甲冑をはじめ、東南アジアの武器が国別に展示されていました。ここでも二十点ほどの所蔵刀剣を調査しましたが、トルンの場合と同じように、きちんと研がれた刀はありませんでした。
 
十七時半からは、日本国大使館広報文化センターにおいて、同センターの方が事前に募集した参加者約七十名を前に「日本刀の製作過程と研磨工作等のお話、手入れと鑑賞作法について」の講演を行いました。植野学芸員による日本刀の歴史、三上刀匠の作刀の話、私は研磨の話、石氏・片山氏・木下氏は「手入れの手法と鑑賞の作法」を映像と実際の作法を見せて説明し、参加者の方にも実際に刀を鑑賞していただきました。
 
質疑応答では、かなり知識のある方からも多数の質問があり、有意義な内容で終始しました。この日は同センターでご用意いただいた寿司で、久しぶりに故国の味を堪能することができました。
 
十五日、ワルシャワ国立博物館で刀剣・小道具の調査。刀剣は三振のみでしたが、小道具は約百点あり、非常に良いものが多数保存されていました。その後、訪問団と博物館との懇談の場が設けられ、副館長の話では、安倍首相がポーランドを訪れた際、日本との関係を深めるという方針の下、ポーランド側では文化交流予算を計上しており、今後双方が協力できれば日本刀やポーランドの武器等に関する展示などに意欲的であるとのことでした。

質の高いマンガ博物館蔵品
午後三時過ぎにはワルシャワからクラクフに移動しなければなりませんが、それまでの短い時間にワルシャワ旧市街地の見学に出かけました。
 
ポーランドではコペルニクスと、もう一人、このワルシャワで誕生し、青年時代を過ごしたショパンが有名です。ショパンは戦時下、故郷に帰ることができず、パリにて三十九歳で他界しています。通訳の方の解説の「ワルシャワ旧市街地はドイツ軍によって意図的に破壊された」という言葉が生々しく、被害意識はなかなか消えないのだと感じましたが、三十年の時を費やしてポーランド人によって修復され、一九八〇年にユネスコの世界遺産に登録されています。
 
旧市街地見学後、慌ただしく鉄道にてクラクフに向かいました。車窓から大平原に沈む夕日を眺めつつ、クラクフ駅に到着。ここは、伝承では八世紀に始まり、十七世紀にワルシャワに遷都するまでポーランドの首都であった所で、日本の京都のような観光地と言えます。
 
大平原のポーランドですが、南部のクラクフ周辺には山があり、そこには炭鉱が集中しています。ちなみに、ポーランドの発電の九〇パーセントは石炭によるものです。十六日は、早朝六時半集合でアウシュビッツ強制収容所組とヴィエリチカ岩塩坑組に分かれて観光に出かけました。
 
この日の午後、最後の訪問先であるマンガ(manggha)博物館に集合しました。mangghaとは浮世絵のことを言い、「北斎漫画」などの呼称もあります。
 
幕末に始まったヨーロッパとの交流は、各国にジャポニズム(日本趣味)をもたらしました。旧体制が崩壊し廃刀令によって刀の需要が消えると、日本の美術品・工芸品は安価で大量にヨーロッパに流出しました。そして、国際万国博覧会で日本の美術品・工芸品が脚光を集め、空前の日本ブームが巻き起こった当時、ポーランド人の日本美術品収集家フェリクス・ヤシンェンスキ氏は、北斎・広重・歌麿の版画、陶器、漆器、根付、能面、着物、武具、刀剣など収集していました。その総数は一万五千点に上ります。この博物館の名前の由来は、日本美術に心酔した彼が、フェリクス・マンガヤシンェンスキと自分の名前にmangghaのニックネームをつけたことによります。
 
ポーランドの著名な映画監督アンジェイ・ワイダ氏が中心となり、日本の建築家・磯崎新氏が設計を奉仕し、多くの団体と日本政府の出資金を集めて建造されたもので、二〇〇二年には天皇・皇后両陛下が訪問されました。この公立博物館の正式名称は「日本美術・技術博物館」で、まさに日本美術のための博物館と言えます。
 
ご承知のように、明治期の海外流出品には優れたものが多く、当館の所蔵品は、これまで調査した三カ所の博物館の中では格段に質が高いものでした。かつて東京国立博物館の小笠原信夫先生も調査をされています。日本刀の数はそれほど多くはありませんが、山城大掾藤原国包、阿州海部住藤原氏吉はかなり出来の良い作品でした。刀装具は約七百点あり、このうちの優品約百点を調査しました。中でも夏雄の鯉の浮かし彫りの鉄鐔が印象に残りました。
 
所期の仕事も完了し、翌十七日朝、訪問団はそれぞれのルートで帰国の途に着き、十八日朝には全員が無事に到着しました。

今後も期待されるポーランドとの文化交流 
今回のポーランド訪問で感じたことは、日本の伝統的な美術品は繊細で上質である、それは日本文化の質の高さの象徴でもあり、現在も世界的に日本文化が関心の的になっていること。そして、海外の方々の期待に応えるべく、われわれ刀職者は、長い歴史の中で日本人が大切にしてきたものを認識し、何が大切なのかを真摯に探究し、真に美しいものを残さなくてはならないと、あらためて思いました。

今回調査した刀剣で、研磨を施されているものは一点もなく、長期間放置されていたことによる錆の進行を考えると、良いものだけでもできるだけ早期に研磨などの修復をすることが望まれます。これはポーランドだけの問題ではなく、日本の博物館・資料館に保管されている刀剣類にも同様のことが懸念され、その総数はポーランドの比ではなく、一部の調査結果から推測すると数万振、あるいはそれ以上あるかもしれません。
 
ポーランド訪問は、中国電力の白髭・矢田両氏以外は初めてで、プロジェクトの進行には不安もあったと思います。しかし、いずれの訪問先でも常に最高責任者の慇懃な対応など受け入れ態勢も万端に整っており、移動や宿泊も完璧でした。これは、お二方が築かれた先方との信頼関係があってこそなし得たものと考えます。時間を割き、ご尽力をいただいたことに、心より感謝申し上げます。
 
そしてもう一つ、ポーランド人が歴史的背景から親日的で協力的であったことも、成功に至った重要な要素となっています。訪問団にとっても、現地の方々にとっても、深い感銘が心に残ったことは間違いありません。
 
帰国後の十月三十日、備前長船刀剣博物館にて開催された「お守り刀展」の表彰式に出席しました。今年、同展覧会にて駐日ポーランド共和国大使賞が授与されることになり、ツィリル・コザチェフスキ大使本人から三上貞直刀匠に授与されました。授与された盾は、日本刀とポーランド騎士のサーベルがクロスしたブロンズの図柄でした。
 
ポーランド側は非常に意欲的であり、相互の努力によって、これからますます日本刀を通した交流が期待されます。
 
最後に、『刀剣界』に特別の紙面を提供してくださった全国刀剣商業協同組合ならびに編集委員会の皆さまに、心よりお礼申し上げます。

〈参考〉ポーランド人が親日的な理由
 ロシア革命の混乱の中で親を失ったシベリアのポーランド人孤児七百六十五名(一〜十六歳)を二度にわたり、日本政府・日本赤十字が受け入れたこと。日露戦争に駆り出され、二百三高地や旅順で捕虜になったポーランド兵を四国松山で手厚く待遇したこと。第二次世界大戦当時、外交官杉原千畝が大量ビザを発行して避難民を救った事実はよく知られているが、その大半はポーランド系ユダヤ人だったこと。日露戦争で大国に勝利した日本は、ロシア周辺国にとって当時、英雄的存在だった。

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