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唐沢山に刻まれた郷土の歴史

私のふるさとは、栃木県佐野市である。
 
佐野という地名のイメージからは、最近では「ラーメン」「厄除け大師」「アウトレット」等々が挙がるかもしれないが、江戸時代には天てんみょう明の茶釜、近代では足利・桐生と並んで織物で栄えた街である。
 
人物では、足尾鉱毒事件の田中正造翁、日本刀を二度蘇らせた男栗原彦三郎(刀工銘昭秀)が知られている。刀工では江戸後期から三代続いた源将応、それに竹井信正、金工では菊池政長がいるが、あまり知られていない。
 
昨年三月、佐野市の北、海抜二四七メートルにある唐沢山城跡が国指定史跡になった。
 
そこで、唐沢山城について触れてみたい。
 
佐野氏の居城として唐沢山山頂に築城した最初は、室町中期の文明ごろの説もあるが、本格的な城は織豊時代、佐野信吉のころと言われている。佐野氏は足利氏と小山氏の間にあって、戦国時代は生き延びるために北条方に付いたり、上杉謙信方に付いたりして、相当な苦労があったようである。
 
秀吉の時代、佐野氏は秀吉の側近富田信種を養子に迎え、佐野宗綱の娘と娶めあわせ、佐野家の名跡を継がせた。信種は秀吉の一字をもらい、佐野信吉と改めている。天正二十年(一五九二)の朱印状には三万九千石とある。秀吉の狙いは、家康に対する北からの監視である。この時期に、現在の城郭が完成したと言われている。
 
秀吉亡き後、時が移り、徳川政権になってからの慶長七年(一六〇二)、当然のことながら廃城にされてしまった。
 
その後、明治維新までの二百六十五年間、入山禁止の「おとめ山」となり、完全に草木に覆われたままの状態であった。
 
明治に入り、本丸跡に藤原秀郷公を祀る唐沢山神社が創建されたが、本丸の織豊系高石垣は今も往時のまま保存され、歴史上きわめて貴重であることから、今回の指定となった。
 
戦国時代、永禄ごろには、上杉謙信が遠く越後から八回も攻めてきたとの記録がある。いかに重要な城であったかがわかる。
 
私の小学校時代、春の遠足、秋の写生会は、いつも唐沢山だった。春は新緑やヤマツツジが城全体を覆い、秋には松茸がたくさん採れ、十一月ごろは紅葉が美しかった。今、冬の晴れた日には八〇キロ離れた東京スカイツリーが見え、南西方向には富士山も見える。さらに、天狗岩からは北側に日光の男体山も見える。
 
眼下には有名な唐沢カントリークラブ佐野コースが望め、周辺には数多くのゴルフ場がある。ゴルフがてら、あるいは佐野を訪れる折、唐沢山はぜひ立ち寄ってほしいスポットだ。
 
最後に佐野家について記すと、同家は平安後期、「百足退治」で知られる藤原秀郷(俵藤太)を祖に仰ぐという。鎌倉時代中期の建治二年(一二七六)には、日光二荒山神社に佐野安房兵衛次郎藤原氏綱なる人物が金銅鶴文沃懸地太刀拵(重要文化財)を寄進している。佐野家がかなりの豪族であったとうかがい知ることができる。

写真の「龍綺兜」(唐沢山神社蔵)は、小田原攻めに参戦した佐野房綱が、武勲の功により秀吉から拝領したものと伝えられている。
 
そのほか、唐沢山神社には、佐野家の神宝として受け継がれてきている「避ひ来らい矢や」と号する兜(平安後期・重要文化財)などがある

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