刀剣界ニュース

日本刀との出会い ヒューズ・ロバート(慶長堂)

一九八二年、新潟市にある富山スポーツセンターの道場で、いつもの通りのJKA空手の練習を終え、へとへとに疲れ切ったころ、私は年配の居合道家たちが袴に着替え、鞄から刀を取り出す姿に心を奪われた。
 
広い道場の端から見た、彼らの大変興味深い一連の動作は、かつて私の人生の中で見たこともないもので、強い衝撃を受けた。
 
私と空手仲間であるカナダの友人は、翌週の空手練習後も同じ居合道グループに遭遇した。
 
彼らの練習も終わりにさしかかるころ、一人の指導者らしき人が私たちのところにやって来て、早口の日本語で何やら話しかけ始めると、他のメンバーたちも好奇心旺盛な眼差しで様子を見守っている。しかし日本語を理解できない私たちに、突然大笑いをしたのだ。彼は全く英語ができず、私たちの恥ずかしいほど低い日本語能力では、何が起こっているか見当もつかなかった。
 
この何とも滑稽な出会いの後、夢想神伝流居合道指導者の一人である橋本先生が道場に誘ってくれた。私たちは喜んで道場に入門し、早速、袴と模擬刀を購入したのである。
 
居合道入門から数カ月たったころ、道場の先輩たちが真剣を見せてくれたのを機に、私の人生は大きく変わった。初めて真剣を手にして、備前丁子を近くで鑑賞したとき、気持ちはまるで催眠術にかかったようで、私が刀を手に持っているというより、刀が私の心を捉えたというほど、刀剣に魅了された。刀剣に出会ったということは、言葉では言い表すことができないほど、私の人生において強烈な意味合いをもたらした。
 
後に、橋本先生には弟がおり、お二方とも研師であることがわかった。弟さんのお住まいは亀田村で、あの有名な「越乃寒梅」の醸造所からわずか数百メールの近さ。出会いの翌年からの四年間は、毎晩の刀鑑賞と、絶え間なく注がれる日本酒とともに夜が明けるといった具合。大変価値あるありがたい日本刀の講習は、たくさんの徳利酒によってはるか彼方へと、私の記憶から遠ざかっていってしまったことは言うまでもない。
 
勤務先である新潟総合学園近くに、大西氏が営む古美術店があり、大西氏は有名な刀剣美術商の一族であることが一年後にわかった。お店に伺うたびに、「日本刀が欲しい」という私の夢を再確認するのであった。
 
新潟での生活も四年目。私の腕前も三段となり、真剣を買うには十分な貯金も貯まったころ、大学の理事でもある私の上司に相談すると、刀剣を買うには新潟警察署に行く必要があるとアドバイスを受けた。そこで通訳の方とともに警察署に行き、日本刀を買うためここに来たことを告げた。すると受付にいた警察官は、別の警察官と相談を始めた。
 
このようなケースはまれだったらしく困惑している状況の中、二階から私服警官が呼ばれ、彼らは私に会議室に一緒に行くようにと言った。その会議室は簡素な部屋で、尋問に使われるような部屋であった。約二時間に及ぶ質問攻めの後、外国人が日本刀(真剣)を持つことは不可能であると告げられた。こうして、私の日本刀が欲しい、自分の刀を持ちたいという夢は、二人の強面の警察官によって閉ざされたのである。
 
それから一年もたたないうちに、東京外語専門学校に転職し東京へ引っ越した。
 
職場で知り合い、後に高野山の僧侶となった同僚のTom Dreitleinは、熱心に居合道に打ち込んでいて、彼の通っている道場に誘われた。その道場は、虎ノ門NCRビル地下にあり、そこで河端照孝氏を紹介された。そのころの天眞正自源流には、有名な刀鍛冶の吉原国家氏や、盛光堂の齋藤大輔氏など魅力的な人々がおり、とても刺激的な道場であった。
 
道場の先輩であるTomは、外国人が日本刀を買うことができないという情報は間違っていると指摘した。事実、日本刀を外国人が所有できないという法律は存在していなかった。私の念願の刀は、Tomから購入した古刀法光であった。
 
その後、盛光堂の齋藤氏から、毎週土曜日のアルバイトを頼まれ、ビジネス英文の作成のお手伝いをすることとなった。このような経緯で、私が永遠に尊敬する齋藤光興氏との出会いがあり、齋藤家との長いお付き合いが始まった。
 
その後、ついに私自身が事業を立ち上げ、海外へ流出してしまった日本刀を故郷である日本に帰国させるべく、アメリカでの日本刀探しが始まった。  私が日本刀に出会ったころとは驚くほど状況が変化し、今や、日本刀の魅力は世界各国で認められ、世界水準の美術品としての確固たる地位を築き上げている。微力ながらも、日本刀の魅力を伝える役割に貢献していることに誇りを持っている。
 
全国刀剣商業協同組合の皆さまには大変お世話になり、何年にもわたりご支援を受けていることに大変感謝しています。

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