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刀剣美術十一月号に掲載されました

刀剣美術十一月号に掲載されました

以下、全文です。

資料調査 「信国光昌の添銘 花洛山人筑柴房江桟 主橘氏」について

銘文 信国大和守源光昌 宝暦五二月 於筑州一ノ胴切落 花洛山人築柴房江桟 主橘氏
長さ 2尺3寸7分 71.8cm 反り 1.6cm 元幅 3.0cm 先幅 2.3cm 目釘穴1個 

作品解説 本間山著 鑑刀日々抄より抜粋
江戸時代末期の筑紫信国一門の光昌が、橘某の注文によって念入りに作刀したもので、ままみる同作に比して上出来というべきであろう。鍛小板目肌つまり、地沸細かにつき、刃文は華やかな丁子乱れで重花・蛙子ごころの刃交じり、匂深く沸つき、足よく入る。肥前物の影響を受けていると見たいが、それよりもやや古刀風である。そして帽子が一枚ごころであるが、これは肥前物に、また同作の他にも経眼の記憶がない。茎裏に切られている花洛山人は試し切りの切手の名であろう。
 
この度上記の作品を拝見させて頂く機会を得て、その出来の良さと、常とは違う裏銘に興味を持ち追跡調査を行ったところ、発見された築柴房江桟なる人物の詳細を述べ、彼と信国光昌の関係、ついで発見された光昌の仙洞御所御剣制作という伝来、また裏銘の意味とそこから推察される本作製作における光昌の作刀環境、筑紫房と有力者との関係までを考察する。

1、本作製作者 筑州信国又左衛門尉源光昌とは

まず本作の作者筑州信国又左衛門尉源光昌は『新刀弁疑』等、各種銘鑑の記述を俯瞰すると以下のようになる。
 信国光昌 筑前国の刀工で又左衛門と称す、現存する年紀は宝暦五年から天明三年(1755-1783)、重久の養子で光正同人という。文化元年没。確認される銘文は「筑州信国又左衛門尉源光昌造」「信国源光昌」「信国光昌造」「筑前国信国光昌」「信国大和守光昌」
 藤代義雄氏、松雄氏共著、『日本刀工辞典』によれば新々刀中上作と格付けられ、刀身に緻密な彫物を施せる物多い刀工という。また、前田稔靖氏著『筑前刀匠信国一派』によると、大和守は名を「俊寿」といい、その系統を文中の表では、信国安俊ー信国吉貞ー信国俊寿ー信国光昌とし、いわゆる新刀期に入って黒田家の庇護のもと活躍した筑前信国一派の一人である。

2、花洛山人筑柴房江桟とは

一方、裏銘に見られる江桟なる人物については本間山氏は『鑑刀日々抄』における本作品解説中に、「花洛山人は試し切りの切り手の名前であろう」と述べられている。これは差し表に「於筑州一ノ胴切落」との截断銘があることからの推論と思われるが、「筑紫房」というのは、芭蕉門十哲の一人とされた志太野坡、末期の門人で俳人左右庵江桟の別号である。平林・大西共著『新撰俳諧年表』に「江桟 神氏、野坡門、京都人」とあり、京都で活躍する俳人である筑柴房江桟が試し切りを行うことは無理があると思われるし、通常截断銘の切り手は差し裏に截断の年号、場所、截断箇所を切り、その下に截断者の銘を入れるのが通例であるためその説には疑義を覚える。以前筆者が『刀剣美術』誌上「越前一乗谷住兼則と春日大社神主ト部定澄」で述べさせて頂いたが、二人の名が茎の表裏に記された場合は、通例として合作刀か注文作の所持者名であることが多いということからも、これは試し切りの切り手というよりは、通常どおり合作刀か注文者の名と考えるのが妥当と思われる。
 ただし、上記の記述だけではそのどちらに類するものかの判断がつけられないので本稿ではまず江桟の出自・経歴などを明らかにし、ついで光昌や銘文最後に記された主橘氏との関係について考察していくこととする。この江桟の俗称や出自を知る好資料が佐々木信綱・梅野満雄編『大隈言道とその歌』の「大隈氏系譜略記」である。次に関係部分のみ抄録する。
  (前略)梅沢利平の母は、おのれの母の第一の姉、第二は帆足弥太夫の母、第三家母、言朝の妻也。(中略)此三女の親は、信国又左衛門光昌、則わが母方の祖父に面、近代カヂノ書カジ考などにも記しあり。三女のみにて相続の忰なかりしかば、弟子の内より相続を立、別家させられしは則、博多の信国也。祖父光昌上京の時連れられ信八と云ふ弟子あり。百錬斎哲翁居士とあり。其脇に帆足弥太夫の母の墓あり。又光昌の兄信国大和守の墓あり。此大和守は隠居して俳名を江桟とよぶ。京師にすみ、かじなりけるに、折節勅命にて仙洞御所御剣を鍛はせ給う。今の世にはあるべからずめづらしきことなり。福岡にて死去せられしかば、今の世に名だかき加賀の千代より追とうの短冊あり。そのたんざく梅沢方にあり。江桟辞世の発句、うれしうれしそのやくそくの時鳥。むかしの墓は石質あしくて磨滅せしかば、梅沢利平再建して左右庵江桟の墓とあり。この安国寺に叔母信女の墓あり(後略)

 右の記述を要約すると、4点の事実が確認できる。
1、大隈言道の母は三人姉妹であり、長姉が梅沢利平の母、次姉が帆足弥太夫の母、次が言道の母(言朝の妻)である。
2、この三姉妹の父は刀匠信国又左衛門光昌であり、そして光昌の兄が信国大和守で、俳号江桟である。
3、彼が信国大和守を名乗って鍛治として京師に住み、仙洞御所御(太上天皇の御住まいになる御所)にて御剣を打った。
4、のち福岡にて死去し、辞世の句が残され、安国寺に墓がある。

ここで1、4の俳人江桟の経歴などついての検証はその道の専門家に譲るとして、2、3の刀剣に関する部分について疑わしいと思われる点があり、各検証を進める事とする。

「三姉妹の父は刀匠信国又左衛門光昌であり、そして光昌の兄が信国大和守で、俳号江桟である」であるが、信国は筑前信国一派の刀工が名乗る通名であり、先に述べた通り、「大和守」は光昌の受領名であり、実際に彼の作品に「信国大和守光昌」と銘を切った作品が残されている事から、兄弟を混同し誤認して伝わったものと思われる。とすると3、にある「鍛治として京都に住み、仙洞御所にて御剣を打った」については、
1、俳人である江桟に鍛治仕事をする事は不可能であると思われる事。
2、銘文に「花洛山人」即ち京都の山に住む、とある事。
上記二点から真実を推察するに、京都に住むのは兄江桟。弟の大和守光昌が上京し、仙洞御所にて御剣を製作したと解するのが自然であると思われる。

3、銘文 主橘氏 について

残るは主橘氏の部分についてであるが、先に述べた通り江桟は志太野坡の門人と言われ、宝暦元年に大坂で取り行われた野坡十三回忌における記念集「十三題」にも江桟の積極的な参加を裏付ける多くの作品が入集している事から、同門の門人は間違いないと思われる。平安時代の名貴族、橘氏との関係を述べて自らに格を付けようとした(遥か古代の偉人と自らの系譜を結びつける事により自らの血統を正当化させる行為は江戸時代に多く散見される。)かとも思い同国に橘氏の関係者がいないか調べたところ、平安時代筑後国に陽成天皇に仕えた橘広相なる人物がいた。しかし、隣国のため不自然であり、筆者としてはこれは同時代の武家歌人、加藤千蔭(姓は橘氏、橘千蔭とも称する)ではないかと推測する。

4、橘千蔭とは

橘千蔭は歌人で江戸町奉行の与力であった父・枝直の後を継ぎ、寛政の改革にもあたるなど優れた実績を残した侍であったが、職を辞した後、若くして学んだ諸芸を活かし、国学を賀茂真淵に学び、退隠後、同じく真淵の弟子であった本居宣長の協力を得て『万葉集略解』を著した。和歌については、村田春海と並び称され、歌道の発展に大きく貢献して万葉学の重鎮として慕われた。因みに、門人に大石千引や清原雄風、源清麿の指導者として名高い窪田清音がいる。また書にも秀で、松花堂昭乗にならい和様書家として一家をなし、仮名書の法帖を数多く出版した。しばしば、江戸琳派の絵師酒井抱一の作品に賛を寄せており、曲亭馬琴も千蔭から書を学んでいる。さらに絵は、はじめ建部綾足に漢画を学んだが、その後大和絵風の絵画に転じるなど、その偉業を並べれば古くは多才で知られた本阿弥光悦を凌ぐのではと思うほどに多芸に秀た優れた人物であったようである。

 本推量を補強する他の史料は現在確認されていないが、志太野坡、末期の門人であった江桟は師の没後は年若なれども文武に秀でた橘千蔭に師事し、本作はその証左となる資料ではないだろうか。本作を江桟からの注文作とすれば、上方山城の地に於いて風流を愛でていた江桟が何故上方では不評であったと思われる截断銘を敢えて加えさせたのか(截断銘の多くは長曽祢虎徹を始めとする武家政権の地であった江戸新刀に多く見られ、京都山城を始め、摂津国など関西圏の作品には圧倒的に少ないのは土地柄故と思われる。)、京都に住む人物名が添えられた本作に截断銘がある事に当初不思議な思いを持っていたが、武家歌人、橘千蔭の師事を受け、その影響を強く受けていたとすれば納得でき、後述するが筆者は本作はまさに橘千蔭その人に送る為に制作された注文作と考えている。

5、本作製作の意味

以上を総括し、宝暦五年二月日という制作時期と絡めて本作制作の意味を推論し、これが注文銘なのか合作銘なのかの推論を述べることとする。
 結論から述べると、筆者は本作を橘千蔭への贈刀として江桟が注文した作品で広義の合作刀ではないかと推察する。本作が製作された宝暦五年九月に江桟の師、志太野坡の十七回忌が興行されている。当時晩年の弟子ながら先輩の浮風と共に野坡門の経営指導にあたるなど、一門で頭角を示していた江桟は大いに奮起活躍し、野坡の一女栄寿(政女)を初めとした連衆二十余人による俳諧百韻に初表六句目を付け、翌六年発刊の野坡十七回忌集「春の窓」には江桟の句が十句も採録されている。かかる大事業に向けて京の都で奮迅していた江桟が筑前国に舞い戻り、向こう鎚を打っていたとは考えづらく、また、同事業に向けて発奮するため、自身に向けて製作された作品であるとすれば、そこに先師志太野坡ではなく、あえて江戸の橘千蔭を師とする文面を加えるは如何にも不自然であろう。江戸で好かれる截断銘をあえて加えたことからも察するに、本作は弟光昌の紹介も兼ねて橘千蔭に贈るために製作されたと考えるに至った。なお、ここであえて光昌の紹介を兼ねるとの一文を入れた理由は後述する。

6、仙洞御所御剣制作にむけた有力者との関係

本調査の過程で発見された「信国光昌が勅命にて洞御所の御剣を製作した」との記載であるが、当初筑前信国一派において正系嫡流ではないと思っていた光昌が、上皇の勅命を受けるなど、刀匠として最も名誉な仕事を受注する事が本当に出来たのか疑問であった。同国信国一派は吉貞を筆頭に吉政、吉次ー吉包ー重包を本家筋として認識しており、特に信国重包(後名正包)は、享保六年に将軍吉宗に召されて江戸に上がり、浜御殿にて主水正正清・一平安代と共に鍛刀し、その技量を認められて一葉葵紋を茎にきることを許された名人でもあることは広く知られている。

当時将軍家からのお墨付きや、天皇家への御用達を得ることは刀工最高の栄誉であった思われるが、それには作刀技術はもとより、場外戦術ともいえる諸事における奮闘があったであろうことは想像に難くない。同国一門の先人が偉業を達成してから三十余年、自らもと奮起した光昌が頼りにしたのが、俳人として京上方に於いて大成功した兄江桟であり、また兄江桟も自らの愛弟をなんとか引き上げようと、自らの培った名士達との人脈を駆使し、権謀術数を用いて手繰り寄せたのが「仙洞御所御剣製作の勅命」という名誉であったのではないだろうか。

総論

本作は、花洛山人筑柴房江桟の注文により橘千蔭への贈答品として製作された一刀であり、それには愛弟光昌の栄誉邁進を願う兄江桟の願いが込められていると愚推する。それゆえ広義においては合作ともいえるとして、注文作と合作の折衷案を提示するものである。また江桟は晩年野坡二十五回忌の施主を勤めるも病を患い郷里福岡に帰省し、母や実弟光昌の献身的な看護も虚しく不帰の客となった。生前刊行の事を思いわずらっていた野坡二十五回忌集は、後に愛弟光昌が草稿を門下に送り明和四年に無事出版されたという二人の厚い兄弟愛を感じさせる事象を追記させて頂いて本校を終了としたい。

本稿は九州大学文学博士で近世における九州俳壇史の研究者である大内初夫氏の論考に寄るところが大であり、同書との出会いと氏の残された研究に、また本稿に貴重な押形資料を快く提供して頂いた藤代興里・龍哉両氏に感謝いたします。

<参考文献>
新刀弁疑
古今鍛治備考
日本刀大鑑 新刀編
日本刀銘鑑
日本刀工辞典 新刀編
諸九尼と筑紫房江桟
諸九尼句集
新選俳諧年表
大隈言道とその歌
大隈氏系譜略記
福岡38号 筑前刀匠信国一派
野坡十七回忌集「春の窓」

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