刀剣業界に吹く風
刀剣業界にはさまざまな風が吹いてくる。そしてまた、多種多様な潮の流れもある。その風向きや潮の満ち干を見極めるのは大変に困難なことで、政府や日銀でさえ経済見通しはままならず、評論家やアナリストたちさえも一カ月先までの景気観測には各人によって大きなバラつきがある。
わが業界も日本経済、ひいては世界経済の情勢に無関係ではいられないが、毎日の新聞等の報道に一喜一憂するほどの相場変動はない。しかし、報道の内容によって刀剣や鐔小道具の愛好家のマインドに深く影響を及ぼすことは事実である。
「失われた十年」とも言われているが、バブル崩壊元年の平成三年以降、平成十九年末までのおよそ十六年間は強弱の風が吹き、潮の勢いを荒らめた時期もあるにはあったが、刀剣業界は比較的安定しており、顧客の購買意欲にも別段の陰りは見当たらず、従っておおむね順風であったと言い得よう。
もちろん、業界と一口で言っても個々の事情や業態などには差異があり、十六年間を一概に語るにはあまりに粗雑に過ぎるが、顧客と対面販売・仕入れする刀剣店などの売り上げ動向が全体の景況感を推し量るバロメーターであるとすれば、大きく見て平穏であったという見方ができる。
風向きが一気に変わり、まさに潮の流れが逆流するかのような異変が起こったのが平成十九年十二月、アメリカのリーマンショックに端を発する経済不況である。それはやがて欧州ユーロ圏諸国の債務問題にまで波及し、世界経済はかつて見ないほどの深刻な状況に陥り、わが業界の顧客の心胆を寒からしめたのであった。
さらに、それに追い打ちをかける出来事が先の東日本一帯を襲った地震と大津波、それに伴う原発問題であった。この未曽有の大災害は、被災地に壊滅的な被害をもたらしたのみでなく、当事者以外にも多方面にわたって人の心や経済に影響を及ぼした。殊に刀剣愛好家には優しい人が多く、被災地の悲しみに対して、趣味に興じている場合ではないという心理が働くのであろう、購入する側に、買い控え現象が生じて販売規模が縮小し、市場に出回る商品に対して指し値が下がる、いわゆるデフレスパイラルの様相が色濃く業界に蔓延したのであった。
しかし、大震災から一年が経過したこの三月後半から四月にかけて、世界や日本経済の諸情勢の改善に伴い、わが業界にもわずかながら追い風の曙光が感じられ、底を脱したかの気配が市場には流れている。
風の「記憶」を追う
さて、本欄の趣旨は、世界や日本経済に言及するなどの大それたものではなく、この狭い業界に吹く風と、底流の動きを観測することにある。
冒頭に述べたように、景気予測は容易なことではなく、今日のような閉塞感充満の中で風向きは絶えず変化し、ましてや人心によっても大きく左右される商況判断は困難を極める。
ところが幸いなことに、業界に長くいると、風に「記憶」が生まれるから不思議である。どのような風が吹いても、その風はかつて吹いたことのない方向からはやってこない。必ず東西南北等の八方位もしくは十六方位からである。
バロメーターという言葉を使ったが、それは気圧計のことである。 風向計はアネモスコープ、風速計はアネモメーター。このような計器を景気(!)判定するたとえに使ったのは先人の知恵であるが、計器は正確に方位や風速を示すが記憶することはできない。それに引き換え、人間は記憶することができる。肌に感じる風は何年か何十年か前に吹いた風である。その風の記憶をたどれば、風の指す方向もかすかにわかる。先のことまではわからないまでも、数カ月の風向きはわかるはずである。
本欄は連載が予定されているが、今回は五月初旬に発行され、次号は七月十五日の予定である。従って、今回は五月半ばから七月半ばまでの二カ月間の風向きを、過去の記憶と現在の状況を重ね合わせて観測すればよいわけである。紙面の都合で多くを書けないが、この二カ月間に限り、風向きはおおむね良好で風速も緩やかであると予測される。
次号からは差し障りのない程度で具体的な事例を挙げ、景況判断の一助となるよう本欄を機能させていきたいと考えているが、果たしてどこまで客観性が保たれるか心もとない。読者諸賢の切なる理解を願うばかりである。