「若者広場」への寄稿のお話をいただいて何を書こうか考えたとき、去る八月二十八日に亡くなられた二十四代藤原兼房(本名・加藤孝雄)大おお先生が思い浮かんだ。
高校を卒業し、はやる気持ちで二十五代藤原兼房(加藤賀津雄)師匠の門を叩き、右も左もわからず、無我夢中の手探り状態で悩みもがいているときに、
大先生はいつも優しく接してくれた。最初のうちは岐阜弁がわからず、会話もうまくできなかったが、大先生の目元が緩んだ瞬間に笑うという離れ業で乗り
切ったり、「で、宙ひろし君はどう思う」と聞かれれば、「大先生のおっしゃる通りだと思います」とその場をやり過ごしたり。今考えれば、我ながらとんでもない弟子であった(当人は必死)。
大先生にとって自分は孫のような年齢で、幼くたどたどしい存在だったのかもしれないが、いつも気にかけてくれて仕事もいろいろと教えてくださった。
私は大先生の若いころの話が大好きでよく聴いていたが、大先生がさらっと話す刀を作れなかった時代、若いころの仕事のやり方や考え方など、すべてにおいて自分の考え方に喝を入れられる思いだった。
人は大概、今の状況を辛いと感じたり、不満不平を並べ、自分がいかに苦しい状況でがんばっているかを考えてしまう。しかし、辛く苦しかったことをさらりと流し、目の前にあることに精いっぱい打ち込む大先輩を見ていて、私は大切なものをもらったと思っている。
大先生には日曜日や休日といった概念はなく、出かける用事がなければ一日中製作途中の刀や短刀を持って仕事場をウロウロし、仕事(刀)漬けの毎日を送っていた。たぶん仕事を仕事と考えてはおらず、当たり前の日常の一部だったと思われる。
師匠から「親父の炭切りを手伝ってくれ」と言われ、最初のころ何度かお手伝いしたが、そのうち大先生はニコニコしながら「自分で使う炭は自分で切る方がリズムが出るからいいよ」と優しく断られた。
聞けば職人として当たり前の話ばかりなのかもしれないが、簡単そうに見えてそれを実践している人は少ないと思う。
新聞の訃報に添えられていた鍛錬の写真に先手(大鎚)として写っているのが自分だとわかったとき、なぜか感極まり、ご遺体の枕元で号泣してしまった。
大先生には、黙々と理想の刀を求める職人の背中をいつも見せてもらっていたのだと思う。そのことに深く感謝し、励みとして、自分もより一層の高みへと行けるように精進したい。きっとそれが、自分を応援してくれている人たちへの恩返しにもつながると信じて。