刀剣界ニュース

「御手杵の槍」と結城秀康

黒田官兵衛の「日本号」、本多忠勝の「蜻蛉切」、結城秀康の「御手杵の槍」を合わせて「天下三名槍」と言う。
 
残念ながら御手杵の槍は、先の大戦の東京大空襲で焼失してしまった。しかし近年、研究者や静岡県島田市の有志らによって復元された。
 
結城氏十八代当主秀康はあまり知られた人物ではないが、実は徳川家康の次男で、二代将軍秀忠の兄に当たる。
 
秀康は幼少から数奇な運命をたどる。正妻の子ではないため冷遇されてきたが、兄信康が天正七年(一五七九)織田信長の逆鱗に触れて切腹させられる。そのため、秀康も徳川氏の後継候補の一人となるが、運命がいたずらする。
 
家康は豊臣秀吉と小牧・長久手の戦で激突、家康が勝利するが、長期戦を恐れ和睦とする。その条件として、秀康を秀吉の養子に差し出す。養子とはいえ、実質は人質の身。それでも秀康はその後、初陣の九州攻め、続く小田原攻めで手柄を挙げ、秀吉の天下統一に貢献する。秀吉もその活躍を認め、子供がいなかったこともあって後継者候補の一人とする。
 
が、天正十七年に実子の鶴丸が誕生する。これにより秀康は、またもや他家に養子に出される。それが結城家である。天正十八年、結城晴朝の養子となって家督を継ぎ、十八代当主となる。
 
御手杵の槍は義父晴朝が作らせ(島田義助作という)秀康に受け継がれたもので、全長が四一二センチあり、熊の毛で覆った鞘も巨大で杵のような形をしているところから、この名が付いたという。
 
その後も関ヶ原の戦の前哨戦となった会津攻めに参戦、上杉軍の足止めに成功し、父家康の勝利に貢献した。戦後、それらの功績が認められて越前六十七万石に加増移封され、そこでも善政を行い庶民からも慕われたという。
 
御手杵の槍はレプリカとはいえ、迫力ある面影を伝えている。再現した島田市から、ゆかりの結城市に贈られ、結城蔵美館で常設展示されている。
(赤荻稔)

Return Top