つい先日、十一月四日に中国国営テレビ局の取材を受けた刀剣店の話を聞いた。正式には「中国中央電視台」、日本語名「中国中央テレビ」は、ニュースは中国共産党からの指示に基づいて報道を行っているが、放送の大部分は自主的なドラマとバラエティから成り立っている。昨今では地方にもテレビ局が創設され、視聴率や広告収入の面でもかなりの競争にさらされているとのことである。
その国営テレビ局が総勢十名でわが国にやって来て、「爆買いと日本の文化」について取材・撮影を申し入れてきたという。
店主は、「爆買い現象は量販店やデパートでのことで、刀剣は中国には持ち帰れないし、中国人のお客さまもそんなに多くはないから」と、やんわり断ろうとしたところ、「中国人には刀剣を購入する許可証がないから買えないのか」とか、「日本国が出さないのか、中国側が拒否するのか」とか、全く会話が成り立たない初期段階ではあった。
しかし相手側は真剣で、「日本の伝統文化の象徴でもある日本刀の魅力を伝えないことには帰れない」と粘られ、しかも取材する担当者は下請けの制作会社ADではなく、テレビ局の五十歳代のディレクターであるということなので時間を限って応じたという。最初はありきたりの鑑賞の要点や歴史についてであったが、「最も優れた刀はいつの時代のものであるか」との質問に対して、その店主が「フビライが治める元の国の軍勢が蒙古軍・高麗軍と連合してわが国に大挙して押し寄せた一二七四年と一二八一年の文永・弘安の役の前後である」と答えたころから相手側も徐々に本音を漏らし始め、「実は自分たちも事前に勉強してきたのだ」と披瀝、何と「『菊と刀』を熟読し、日本および日本文化の神髄に迫ろうとしているのである」と。
『菊と刀』は昭和十九年に日本に来たこともないベネディクト女史が、アメリカの戦時情報局(後のCIA)から依頼されて対日戦略のために日本文化の解明を試みたもので、恩や義理、恥などを日本文化固有の価値として分析し、日本人特有の精神構造と行動様式をある意味皮相的に著したもので、菊という天皇と、刀という武士を端的にタイトルとしたことで外国人には取っ付きやすく、しかも短編であることによって、現在ではネットなどでのヒット数も多いと予想されるが、残念ながら刀のことについては何も書かれては
いない。
『菊と刀』を予備知識としてインタビューを受けていたのではたまらないと思っていたところ、さらに驚くべき質問を浴びせられたという。曰く、「日本人は今でも切腹しているのか」と。もう、話にならないのでここはひとつ、相手方にも有利な話をして刀の話を終わらせようと試み、「現存している優れた文化遺産である日本刀も、起源をさかのぼれば唐の国から伝わったもので、平安時代後期に至って様式的発展を遂げ、ここに見るような姿になったのだ」と中国を持ち上げようとした。ディレクター氏は、「それは違う、わが国に古くからある武器としての刀と、今見せてもらった刀とでは全くスタイルが異なる。その証拠に日本にはその前段階である青龍刀形の刀は存在しないではないか」と。
閉口した店主は、それについてこう答えたという。「わが国にも相手を倒すためだけが目的の青龍刀に似た薙刀も大身槍も存在したのであるが、日本人は刀を攻撃のためだけではなく、身を守るためや精神的な支えとして帯びていたもので、刀鍛冶も持ち手のことを考えて魂を入れて鍛錬し、これを研磨し、外装を製作して大切に伝え続けたものである。戦いのなくなった明治から百五十年後の今日でも美術品としてその価値が保たれており、あなたの国のように武器としてだけに使われたものであれば、争いがなくなればまさに無用の長物と化していることであろうが、わが国ではそこが異なるの
です」と。
話はこのまま噛み合わず平行線をたどったが、最後の質問は、「買う側には何の資格も不要で、日本人・外国人を問わず許可が必要ないとすれば、売る側には必ず資格や免許証はあるであろう。深い知識が必要で、しかも高価なものも多く、保証も必要となってくであろう」と。この質問には参ったが、彼は即座に「われわれは国の認可の刀剣組合に加入しており、公安委員会から許可も得ている」と答えたという。
しかし、そうは言ったものの、刀を販売する資格などという認定は業界にはなく、現在は国家資格以外に数え切れないほどの民間資格なるものが設けられている中で、このようなごく一般的な問いかけに明確に答えられるべく、業界も何らかの策を講じる必要があろうかと切実に感じたという。
わが組合も現在、まず組合員を対象に刀剣鑑定・査定・評価等の資格を認定する事業の検討に入っている。多くの困難を乗り越えなければならないが、業界発展のためには欠くべからざる事業ではなかろうか。外国人でなくとも、刀剣等の売り手の資格を問う時代は間違いなくやってくるはず。
中国国営テレビの取材を受けた刀剣店主の話を聞き、あちらでオンエアされるか否かより、その素朴な疑問が多くの人の意見を代弁しているのではなかろうかと、あらためて認識させてくれたことのほうが価値があったと内心ほくそ笑むのである。