刀剣界ニュース

「日本刀の魂力に」47年前の贈り主遺族と対面

 「刀をもらって、すごく光栄でした」
チャスラフスカさんは十二日、新宿区のホテルで、刀の贈り主の故大塚隆三さんの妻・靖子さん(七〇)と姉の北上弘子さん(七七)と対面した。満面の笑みを浮かべ、「アリガトウ」と、日本語で感謝を伝えた。「二十年前に(急性心不全で)亡くなって」と、二人が大塚さんの写真を見せると「覚えています」と記憶をたどるように語った。
 チャスラフスカさんは一九六四年の東京五輪・女子体操で、個人総合の金メダルを獲得した後、種目別の協議に臨んだ。大塚さんが選手村に日本刀を持って訪れたのはそのころだ。 
「段違い平行棒の決勝の翌日でした。日本の方が来ているというので、門のところで(刀を)直接受け取りました。私は二十二歳。当時はサムライの歴史も知りません。貴重さは時間を経るにつれて意識するようになりました。日本のことを学び『刀には魂がある』と知りました」
大塚さんは、当時二十五歳だった。福島県山郡町(現在・喜多方市)から上京し、都内の大学在学中に新聞輸送の会社を創業し、高田馬場で暮らしていた。弘子さんは「夫は本当に熱心なファンでした。刀は大塚家に代々伝わるもので彼にすれば『宝物』を渡したのです」と振り返る。
 刀を受け取ってから四年後、チャスラフスカさんの人生は激動を迎えた。チェコの民生化運動『プラハの春』にソ連が介入し、軍事侵攻したのだ。民主化運動を支持したため自由を制約され、六八年のメキシコ五輪の参加が危ぶまれた。
ぎりぎりになって出国が許され、参加した大会では、濃紺のレオタードで抗議の意志を示し、四つの金メダルを獲得した。種目別で唯一、金を逃した平均台のメダル授与式では、金メダルのソ連のクチンスカヤ選手に顔を背け続けた。
 帰国後、祖国は冷たかった。当局の盗聴や尾行など監視が続いた。心が折れなかった理由を、チャスラフスカさんはこう話す。
 「東京五輪の開かれた幸せな時期を思い、それに支えられた。この刀は、私には日本の一部。共産主義体制下でも、日本から力を得ていたんです」
 東日本大震災の復興支援で、二十一年ぶりの来日となったチャスラフスカさんは、刀の贈り主との対面を強く望んだが、手がかりは刀を受け取ったときのメモに、ローマ字で「オオツカ・リュウゾウ」とあるくらいだった。顔もおぼろげな記憶しかなかった。相談を受けたプラハ在住の指揮者、武藤英明さん(六二)らが、刀の鑑定や贈り主捜しを始めたことが日本の新聞に載り、それを見た大塚さんの知人が、親族に伝えた。
 チャスラフスカさんは「興味深いのは、大塚さんが私に刀を渡そうとした、その決心です」と話した。

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