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徳川ミュージアム 初公開の燭台切光忠と児手柏包永を見る

東大震災で被災した水戸徳川家の名刀「燭台切光忠」と「児手柏包永」が茨城県水戸市の「徳川ミュージアム」において公開展示されました。
 
公開期間は七月十一日〜九月二日でしたが、筆者が訪れた日は夏休み初めの連休ということもあり、十時の開館に合わせて到着したところ、受付には既に行列ができており、十一時ごろには百人を超す方々が並んでいました。
 
燭台切光忠は今、女性に大人気のオンラインゲーム「刀剣乱舞-ONLINE-」に擬人化したキャラクター(刀剣男士)として登場し、高い人気を得ています。実際に、訪れている方は若い女性が多かったようです。
 
燭台切光忠の来歴は諸説ありますが、水戸徳川家の刀剣台帳「武庫刀纂」によると、仙台藩主の伊達政宗の近臣の一人が罪を犯し燭台の陰に隠れていたところ、政宗がこれを燭台もろとも斬り倒しました。そこからこの刀を「燭台切」と呼ぶようになりました。
 
徳川光圀は幼年のころ、政宗の邸宅にて刀を身近に置きながら政宗に「燭台切」の由来を語り聞かされました。光圀はこの刀を欲し、お気に入りの品だからと一度は断られましたが、最後は刀を頂いて帰ったと伝えられています。
 
大正十二年の関東大震災による火災で、燭台切光忠は他の多くの名刀とともに焼失してしまいました。全体が焼けて黒くなっているものの、往時の刀姿を残し刀身の表面は綺麗でした。茎には火事の高熱で溶けた金鎺が輝いていました。燭台切光忠の刃文を今に伝えるものは「武庫刀纂」の押形のみですが、鮮明な乱れ映りが立ち、丁子乱れに蛙子丁子を交え、帽子は、浅く湾れて小丸に返った刀だったようです。
 
児手柏包永は細川藤孝が所持し、佩裏に「兵部大輔藤孝磨上之異名号児手柏天正二年三月十三日」と刻まれています。その後、徳川家康に譲られ、家康は関ヶ原合戦に際して児手柏を佩刀したと伝えられています。水戸徳川家では第一の宝刀として伝えられました。児手柏包永は佩表が乱刃、裏が直刃になっているので、「万葉集」の消奈行文の歌に「奈良山の児手柏の両面にかにもかくにもねじけ人のとも」にちなんで名付けられたといわれています。
 
燭台切光忠と児手柏包永の二振はこれまで未公開でしたが、今回初めて公開されました。
 
現在、さまざまな方面から刀剣に注目が集まっています。今後も多くの展覧会やイベントが開催され、未発見の名刀が現れることに期待が高まります。
(冥賀亮典)

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